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ドッジボール
ジャンプしてボールをよける選手
統括団体世界ドッジボール連盟
ドッジボール(dodgeball)は、子供の顔くらいの大きさのボール(多くはバレーボールなど)を使い、相手の頭部以外の身体にボールを当てるスポーツまたはゲーム。多くは2つのチームに分かれて大人数で行う。漢字では避球と表記する。主に小学校などで多く行われている。日本ドッジボール協会(JDBA)が設立されるまでは、スポーツというよりも、遊びの一つとして存在していた。そのため、様々なルールが各地の子供たち独特の感覚で決められ、近所の小学校であっても微妙な違いがあるなどした。
ドッジボールの名称は英語のdodge(素早く身をかわす)からきている。呼び方は地域などにより異なることがあり、「ドッチボール」や「ドッヂボール」などと書かれることもある。
歴史「日本ドッジボール協会ホームページ:ドッジボールの歴史」も参照
日本ドッジボール協会によれば、発祥はイギリスという説もあり、原型は1900 - 40年頃であるとされている。1909年(明治42年)、「可児徳と坪井玄道によって円形デッドボールという名称で日本に初めて紹介された」と同協会はしているが、実際には可児と坪井がドッジボールを伝えた同年刊行の『小學校運動遊戯』には「ドッヂボール」と書かれている[1]。同書に掲載のルールは4種類あり、次の通りである[2]。(「ルール1」等の名称は説明のために便宜上付けたもので、『小學校運動遊戯』中の表現ではない。)
共通事項:競技人数は20 - 60人、使用するボールは大ゴム球(バスケットボールまたはフットボール)、対象は小学5年生以上[3]
ルール1[4]
参加者を甲乙2組に分け、甲組は円形に整列し、乙組は円内の任意の位置に付く。
甲組は円内の敵にボールを投げ、当てようとし、乙組は当てられないように走ったりボールを避けたりする。
甲組は交互にボールを投げ、円外にボールが出た場合は拾いに行って味方にパスする。
乙組はボールに触れてはならない。触れた場合はアウトになり、円外に出て甲組に加わる。
甲組は円内にボールを拾いに行くことはできるが、円内から投げたボールが敵に当たってもアウトにはならない。
乙組の全員が当てられるまで続け、最後に当てられた人を乙組の勝者とする。
攻守交代し、甲組の全員が当てられるまで続け、甲組の勝者を決定する。
甲乙の両勝者のみを円内に入れ、他の参加者全員でボールを投げて当てようとし、当てられなかった方を総合優勝とする。
ルール2[5]
基本的にはルール1に準じるが、当てられた人は甲組に加わらず、乙組全員を当てるまでの時間を計測する。
攻守交代し、甲組全員を当てるまでの時間を計測する。
全員を当てるのにかかった時間の短い方の組を勝利とする。
ルール3[6]
ルール2で3 - 5回戦行い、合計時間の短い方の組を勝利とする。
ルール4[7]
2つの円を用意し、甲組・乙組それぞれが円形に整列する。
甲組・乙組それぞれ5 - 7人を敵の組の円内に送る。
甲組・乙組が同時にボールを投げ始め、先に円内の敵を全員当てた方の組を勝利とする。
可児徳は1913年(大正2年)に矢島鐘二と共著でデッドボールのルールを紹介している[8]。(この頃にはデッドボールという名称が一般的であった。)
参加者を甲乙2組に分け、甲組は円形に整列し足元に自身が入るだけの小円を描き、乙組は円内の任意の位置に付く。
甲組は円内の敵にボールを投げ、当てようとし、乙組は当てられないように逃げ回る。甲組は小円から出てはいけない。
当てられた乙組の者は円外に出て整列し、全員を当てられるまでの時間を計測する。
攻守交代し、甲組全員を当てるまでの時間を計測する。
全員を当てるのにかかった時間の短い方の組を勝利とする。
1917年(大正6年)に永井道明が方形のコートを伝えた[1]。永井はドイツ・ベルリンの小学校でたまたま子供たちが楽しそうに方形のコートで行っているのを見かけ、これを伝えたのであった[9]。ベルリンの小学校では室内競技として行われていたが、永井は日本の国情には屋外の方が適していると考え、屋外競技に変更した[10]。また事あるごとに講習会や実地授業などの場で指導し、普及に努めた[9]。さらに2度目の欧米外遊の際に更なる研究を行い、日本に帰国後、自身が会長を務める東京府体育研究会で1年4か月かけて議論を重ね、1924年(大正13年)に「デッドボール競技規定」を制定、防御側の選手がボールを受け取ることができるルールに改良した[11]。こうしてドッジボールは「日本独自の球技」となり、この意味ではドッジボールの考案者は永井道明ということになる[12]。東京府体育研究会の制定したルールは次の通り[13]。
1チームは20人とし、15人を内野に、5人を外野に配置する。
審判員がコート中央のセンターサークルでボールを真上に投げ上げ、競技を開始する。
ボールを取ったものは相手チームの選手に当てるか、味方にパスする。
ボールを取ったものは5秒以上ボールを保持してはいけない。また3歩以上歩いたり2回以上ジャンプしてはならない。
ボールに当てられた者はデッド(アウト)となり、外野に出る。ただし、1回の投球で2人以上当たった場合は最初に当たった1人のみ外野に出る。
外野の人が相手チームの内野を当てた場合は内野に復活する。
どちらかのチームが全滅するか、競技時間が20分経過した場合は終了となる。
ここまでが1ハーフで、コートを交代してもう1度競技を行う。
2度の競技で内野に残っていた人数の合計が多い方のチームを勝利とする。
1926年(大正15年)5月、「学校体操教授要目」の改正に際し、大谷武一はデッドボールと呼ばれていたこの競技を「ドッヂボール」に改名した[14]。また、可児・坪井らが伝えたものを「円形ドッヂボール」、永井が伝えたものを「方形ドッヂボール」と呼んだ[14]。なぜ大谷がドッヂボールに改名したのかは不明であるが、デッド(dead=死)という語から来る忌避感、現代風に言えば言葉狩りであるという説がある[15]。理由はともかく、後世にはデッドボールではなくドッジボールの名が残ることとなる[16]。
1937年(昭和12年)発行の佐々木等著『学校球技』では、「避球(ドッヂボール)」として掲載されている[17]。この中で避球の教育的効果は「協同の精神と協同の動作とを練磨し、身体の敏捷さを増し、相手の動きに対する判断を正確にすること」と述べられている[17]。